デズニー・ランド・ホリデー・ブレイン

大丈夫!津波で流されても《政府》の救助船が一人残らず救助してくださる。
なぜなら《政府》は君に首ったけ「Only You」だから。
救命浮輪を投げて、君を離さない。

大丈夫!原発がメルトダウンしたって《政府》はみんなをびっくりさせないように「安全さ」と安心させてくださる。
なぜなら《政府》は君に首ったけ「Only You」だから。
火が降ろうが、槍が降ろうが、セシウムが降ろうが、お構い無しに「安心」と「やすらぎ」のスマイル。
運悪くおうちに帰られなくなったみんなには「東芝」から「サザエさん」に会えるかもしれない一泊二日東京ツアーの旅行券を進呈。
これで会社や学校にもいかなくて済む。いかすね!

大丈夫!中国が攻めてきたって《政府》がザックリ失業中の若者を兵隊に仕立ててコテンパンにやっつけてくれる。
なぜなら《政府》は君に首ったけ「Only You」だから。
中国の銃弾に若者の足や手が吹き飛んでも「三菱」のロゴ入りマニピュレータが装着される。
運よく脳みそが吹き飛んだ坊やには「日立」や「松下」と名だたる冷蔵庫メーカーのバイタルチェッカーが装備され、まるでかっこいい真っ黒な暗黒卿シスみたいだ。
払いはパパやママからこっそり10%くすねておいてあるから安心さ。
じゃんじゃん使って、鼻息を荒くしようぜ。「はああ〜〜〜〜!ふううう〜〜〜〜!」

切れる

どうやら僕は、僕の言うことを理解できない人に対してすごく「切れる」ようだ。

先日の「ミイラ山」周辺のコンクリートで作られた人工の用水路でのエピソードを思い出した。
子供なら誰しもやったであろう笹舟の競争でのこと。
僕と友人はいつもの様に笹舟レースで競い合っていた。
突然友人の船が失踪した。よく見ると後方の縁に引っかかって座礁していた。
友人が騒ぎ出したので、座礁している方向を指さしたが、友人の目には船が見えないらしい。
「見えない!見えない!」と、あまりに騒ぐので「この馬鹿やろう!」と友人の後頭部に蹴りをお見舞いして、コンクリートの用水路にたたき落としたのだ。

普通に考えれば、その程度のことで立腹する精神のほうがどうかしている。
自分が示したり、説明してしたりして、相手が言ってることの意味を理解できない時などに、このような血で血を洗う惨劇が、僕の人生の節目節目で繰り返されてきたように思う。
もちろん、血を流すのは自分ではなく僕と対峙した気の毒な隣人たちではあるのだが、昨年であった大切な人から意味不明な「怒り」の裏側には何かどうしようもなく切実なコンプレックスのようなものが隠されていると教わっていたので、さらなる犠牲者を増やさないためにも原因の究明に乗り出してみた。
昨年は随分「別離」のことで心を病み、その時に徹底的に自分を整理したので、わりかし簡単に答えが出た。

僕は生まれて間もない頃、母親の職業上の理由から「放置」されていた。おそらくはその経験から、自分の「願望」を察知し得ない、母親への「無理解」に対し強烈な「怒り」を温存していたのに違いない。
僕の言うことに《理解》を示せない者への《苛立ち》はこれが原因なのだ。

だから、僕は大人になってから「どうしてこんな簡単なことが理解できないのか?」と思うようなシチュエーションに対して、比較的愚鈍な輩に出くわすと、相手を遠慮なくdisってきたのだ。

イルミナティといわれる闇の権力者集団がいると言われている。
《都市伝説》として語られる存在ではあるが、僕はいると信じている。
なぜなら、彼らの《精神》が理解できるからだ。

遠慮無く僕から《馬鹿》のレッテルを貼られた気の毒な無実の隣人たちが増えるにつれ、僕は思い上がった結論にいたった。
人類《総お馬鹿》なら、いっそ、《人間》なんか地球上からいなくなればスッキリ綺麗な美しい地球を「取り戻せる」ではないか?!
『人類皆殺し』だ!
ではどうやって実現する?
そうだ、子供が生まれなくなればいいのだ!!
不妊になるウィルス開発し散布すれば、やがて人は数を減らしてゆき、最終的にはいなくなる。
狂ってる。ああ、狂ってるし病んでる。
こんなくだらない事を大まじめに考えていた時期があった。
しかし、こんな「下らないこと」を本当にやってる連中がいることに311以降知ることになった。
言うまでもないが、その連中のことを素直に『嫌悪』した。

子供が生まれ、人の親となり、普通に「人間」として「親」として生きていける立場になったから、『人口削減』などと稚拙なことを考えている連中のことをストレートに忌み嫌えるけれど、少し前まではそれ自体はまるで鏡に写った自分だったのだ。
だから、彼らの発想も理解できなくもないし、何だか郷愁…長い間、忘れていたキャンパスの机の上の鉛筆の臭いのような愛着に限りなく近いものすら感じる。
ワン・ワールドの人達の考えていることはどこか奇妙な地下水路で僕と結びついている。
今は立場が違うけど、《情熱》とか《不正に対する潔癖なまでの憎悪》とか《醜いもの》とか、少年がそんな対象の子供をよってたかっていじめるあの感覚に近い《純粋さ》と《無垢》と《愚かさ》は何か決定的に一致しており、他人とさえ思えない、共通の心の傷なのか。

ミイラ山に陽は落ちて

「ドラえもん」の子供たちの遊び場はセメント管がおかれた空き地だ。
僕らが少年時代だった頃はああいった開発途上の土地は絶好の遊び場であり、特異で奇異な幻視の空間でもあった。
さしずめ現代の子たちはサイバースペースというところか…。

僕は(その当時の子ならだれでもそうであったように)映画やテレビの影響もあってロボットが好きだった。
年代によっていキャラクターは「鉄腕アトム」「鉄人28号」「ジャイアントロボ」「マジンガーZ(これは自立型ロボットではなく、むしろ後に出てくるモビルスーツだが…。)」となっていくと思うが、それは少年が機械と(あたかも生き物であるかのように)精神的に結びついた地層のようなものだろう。

開発途上の土地にはいろいろな廃材があるものだが、とりわけ、何らかの電子機械が激しい工事のために破損し、放置されたプリント基板などは、少年の心に「ロボットが作れるかもしれない」という類の一抹の妄想に火をつけるには十分足りうるものだ。
使える使えないは二の次だ。
なぜなら、少年たちに工学の知識がない。
あるのは自分専用の奴隷ロボットを所有するという熱い「切望」だけだ。

僕が半年という極めて短い期間暮らした福岡市の東には開通間もない新幹線が走っており、宅地開発のために森林が伐採され禿山になった山は造成され、自然の滑らかさを失い、人工的なグリッドに整備されつつあった。
開発は良いことだといってはばからない時代を追い風に…。

僕ら少年たちはミイラの寝姿に似ていることから、この無残な山を「ミイラ山」と呼んでいた。
日没の頃、広場に立つとミイラ山に陽が落ちるのだった。
一日の終焉。手付かずの山の終焉。人間の終焉である《ミイラ》という語彙を用いたのは感覚的に少年たちが終焉を意識していたのかもしれないな、などと最近思う。

当時、僕は最愛の祖父を失った。
大切な人間が《死ぬ》という理不尽さに決着をつけられず、そのはけ口に金属でできた不老不死の他者(友だち)を作りたいと思っていたのかもしれない。
決して死なない、裏切らない、いつもそばに居て、頼もしいロボットを。

13年バブル説

今年はアベノミクスで日本はバブル景気に湧き低迷する世界経済を尻目に一人勝ちらしい。

正確にいえば欧州勢と同じくらい急なカーヴで崩落するはずの日本勢も、2013年を迎えると一転して上昇基調となり、ついには米欧勢よりも遥かに良い状態へと到達するというのである。

騙されない日本勢への最後の言葉 – 元外交官・原田武夫の『国際政治経済塾』 – マネーのまぐまぐ!2010年7月28日


人間というのは不思議なもので、以前の「バブル崩壊」の時ははじけて、すってんてんになってしまったあとで「あの時、有り余る資金で、不景気になった時のための投資ししておけばよかった」と散々後悔したものだが、おそらく、いざ「バブル再び!」ということになるとその時の教訓なんか木っ端微塵に忘却の彼方で爆破してしまって、また同じように湯水のような無駄支出に明け暮れるのである。

しかし今年のバブルは罠が仕掛けられていそうだ。
TPP反対を公約の安倍政権も早々と姿勢を変えつつある。
無論、選挙時の公約など、色男の口説き文句同様だというのは定説。
今年、バブルで馬鹿に拍車のかかった日本大衆が浮かれている間のTPP参加、そして本当の意味での日本政府終了が見えてきた。
少々株価が上がったからって浮かれてはいけません。日本の再建にどう挑むのか、見捨てるのか、今年はそのきっかけのバブルが起こることを肝に銘じてそのタイミングを逸したくないものだ。

言うまでもないが中央銀行などというものは公の開かれた機関でないばかりか、民間株式で、株主の言いなりの機関である。
通貨発行権を持つ中央銀行になら、「バブル」を《起こす》のも「不況」にするのも自由自在。
ゆめゆめ「市場法則」などという一見理にかなった、もっともらしい《幻想》を基軸に物は考えないことだ。

恐怖散布

情報は不鮮明だったり、多すぎたりするとその品質を落とす。
連日のようにケムトレイルとか集団ストーカー、人口地震や本当の自然地震、有害物質による大気汚染、食品汚染の情報が連日、ソーシャル・ネットワークのタイムラインを流れていく。
しかし、今一度、その情報を洗ってみるのも良くはないか?
つまり、全体の集合的効果のほうが甚大な被害ではないかと思えてきたからだ。
つまり単にそれは《恐怖》を散布してるだけではないか。
広く《恐怖》を人々の心に根付かせることでも、嫌が上でも《救済》を求める気持ちを想起させるのが本当の目的ではないのか。