みんな、選挙への臨み方を間違っている

自民党55年体制の終焉を望み(老人層は自民党にお灸と言うだろうが…w)、珍しく国民の意志が見えた政権交代から3年。

案の定、国民の好みそうなマニュフェストをセレクトしたのはいいが、そのほとんどを果たせないまま時間が経過し、311でとどめを刺された格好の民主党政権だった。

野田政権が震災のショックに乗じてやりたい放題やってしまった後の選挙だけに、民主党の続投は望めないはず。

自公民がダメだった、では次はどこに…。

国民の不満を行政を吊るし上げることで、そのルサンチマンのはけ口を巧みに演出しているファシスト政党「維新の会」。

常に状態を崩さない共産党。

内閣解散後から、僕はあえて政治的なツイートはしなかった。

正直わからないというのもあったが、高みの見学に徹したかった。

面白いことに、軒並み反共ツイートが溢れだした。

震災後、最初の福岡市の選挙で「反原発」の旗を上げるべき共産党はそうしなかった。

千載一遇のチャンスだと僕は少なくとも思っていた。

北九州市で震災瓦礫の焼却の問題が浮上した。

こともあろうに北九州市の共産党市議団は、物の見事に焼却を認めてしまった。

僕はこの件については納得がいかず、抗議もしたし、批判のツイート、自分の立ち位置の反省もツイートした。

だけど、その時ですら、今ほどの反共ツイートはなかった。

選挙が始まった途端にせきを切ったように反共ツイートが溢れだした。

多くはポリシーのない雇われツイートだと気がついた。

共産党に票を回さない。

これはエリート(金融資本)の意志だし、計画だ。

選挙制度はまやかしだ。

地球上の富の99%を独占しているエリート(金融資本)が、一般市民の意見が通るようなシステムを許すはずがない。

共産党は議会制民主主義は進化論などをモデルに作られた科学的と称する唯物的史観から《必然》であると主張する人たちだ。

だから、選挙とて、戦えば一般市民の勝利は充分にある。と宣伝するためにいる政党だ。

一般市民は自分たちの意見が通ろうが通りまいが《投票》を行えば自動的に政治に参加したという《幻想》を抱かされる。

さながら、311以前は電気は原発がないと足らないと思っているのと同じだ。つまり《幻想》だ。

twitterのTLの反共な雰囲気から察して、エリートは共産党には勝たせない。というメッセージだけは明確に読めた。

では、どこを勝たせたいとエリートは計画しているのか?

「維新」なのか?

その答えは今日はっきりした。

「脱原発」を旗印に小沢新党の「国民の生活が第一」を解党してまで結党した「日本未来の党」だ。

実は小沢一郎が民主党を離脱して新党旗揚げした時、その政党名「国民の生活が第一」に違和感を感じていた。

自分がまとめあげてきた民主党を抜けてまで結党した割には力がないというか、まだ先に何らかのシナリオが隠されているかのような…。

その謎は今回の新党結成で明確に答えが出たわけだ。あの時点から何らかの方向性を明確にするタイミングを見計らっていたのだ。

小沢一郎という怪物のすごいところだ。今いる国会議員の中ではダントツに、間違いなくスケールが違いすぎるくらいに《最強の政治家》だ。

彼が政権をとった先のことは、実は恐ろしくわからない。

現時点で見えてくるのは、決してマイナスなものは何一つないように見える。

だから、わからない。

小沢信者に「ジョン万次郎の会」で、どっぷり経団連、電力関連のコネクションがあるということを示唆しても、眼中に無いかの如く心酔しきっている。恋は盲目状態。

それにしても何故にエリートたちは、このタイミングで彼を政権の座に付けたいのか?

検察による告訴まででっち上げて、あたかも敵対するかのような芝居までやってのけて…。

これが、僕の妄想なら、後日笑い話で済む。

あたっても、外れても、エリートの次の手があることだけは間違いない。

だから、もし、本当にエリートたちの出鼻をくじくなら共産党に投票しなければならない。

それは共産党を支持するのではなく、エリートたちの計画を狂わせる唯一の方法だからだ。

実際、僕らが選挙によってできる、エリート連中に楯突く行動は、悲しいかな、この程度のことしかないのだ。

こんな晴れた気持ちのいい日には。

こんな晴れた気持ちのいい日には、誰かと連れ立って空の下で何も考えず時間を過ごしたい。

もともと人を信用しない、単独行動が得意な僕ですらそう思う。

そんなすきを狙って、懐に潜り込む者がある。

気づかないけどあるんだよ。

遠く中東では凄惨な血で血を洗う殺し合い。

僕らはスクリーン越しそのことを知っているけど、殺し合いをやっているわけではない。

情報でしかないこのことを、間抜けな僕らは差異に良心を苛まれ、しっかり心に《原罪》をセットする。

だけど、僕らの周辺、心の奥底に張り巡らされた(光ファーバー、メタルワイヤから視神経を抜けた先の神経細胞の)ネットワークに至るまで、諜報活動、略奪、謀略、暗示という殺人兵器など、ありとあらゆる手段を用いた「見えない戦争」が起きてる。

クラウゼヴィッツ的に言うなら「戦争とは他の手段をもってする生活の継続である」。

僕が「安息」や「幸福」、時には「悦楽」を求めた時にはデフェンスを超えて大挙した軍隊は流れ込み、あっという間にとりこにされる。

比喩の話ではない。

《マインド・コントロール》はこれら個人的な心の中に起こった、いわば人質状態。

僕らは日々「脅され」「騙され」「奪われ」続けて時間を経過させている。

悲しいかな。

それでも、こんな晴れた気持ちのいい日には、誰かと連れ立って空の下で何も考えず時間を過ごしたい。

《戦争》は続く。

《負け》を認めてもいい相手がいることは、幸せかな。

我道を血で染めど、君の肉片に語るすべなく

お前らが、俺の行く先で死にたがる《わけ》はわかった。

無分別でお人よし、常識のない口の軽さが、お前らの死に至るを語ることを期待しての事だ。

数年来、俺は非情にもそのことを罵り続けてきた。

それは、俺がまだ、まんまと社会に溶け込めず、けれど社会に左右され続けていた苛立ちのなせる技。

今は、もう、お前らの要求は飲み込めた。

お前らは無責任にもこのまぐれ者の奇妙なアブラムシに、社会への抗議を代弁させようとしているのだ。

わかった。

語ってやろう。

どんな具合に列車にぶち当たり、どんな具合に身体がありえない形にねじれ、どれくらい痛かったのか…。

どれくらい社会の重圧がお前らを襲いかかり、悲鳴をあげながら損壊したか…。

されど、俺には確固たる資料はその四散した身体の肉片のみであり、俺は可能であればそれをつぶさに記録し世に問うてみたい。

お前らがどうして俺を選んだのかよくわかっている。

お人好しにして、メシア気取りの《うつけもの》。

見当違いな側溝の爪の垢を、俺は世に問うだろう。

かつてお前らが、この世に《人》として大地を踏み鳴らし、されどその幸福を享受できなかったということを。

遠慮なくぶちまける馬鹿者はこの俺だ。

俺がわめかなければ、お前らはただ道を塞いだ塵芥のように吐き出され、忘れ去られるからだ。

歌おう。お前らが体を張って表現した社会の《暴力》を。

祖母のこと

「三度々々の食事だってままならなかっただろうに…。」

母方の祖母は亡くなる前、この言葉を何度も何度も繰り返していた。

親戚の名前を全て言うのを繰り返していた。

僕の知ってる祖母は、どこか狡猾で抜け目がなく、皮肉屋で、頭がいい。

ニヒルでクールなばあさんだった。

かなり晩年まで東京の狛江に一人で住んでいた。

僕は仕事の出張で銀座に1ヶ月滞在した時に会いに行った。

その時にはすでに、痴呆も進んで、僕の知ってる、矍鑠とした祖母ではなかった。

「三度々々の食事だってままならなかっただろうに…。」

これは先立った祖父への感謝の意味と思う。

でも、これはもうひとつのメッセージが含まれており、僕に向けても言っている。

「三度々々のご飯さへ食べてゆければ大丈夫だからね。」の意味だった思ってる。

当時の職場は恐ろしく激務でストレスもかなり溜め込んでいた。

祖母は昔から、そんな人の心の中を読み、深い言葉をかける機知に富んだ人だった。

また戦中、戦後の激動の時代を生きた祖父母たちにとってその後の「心」をないがしろにした虚飾の繁栄に対するリセット魔法の呪文だったかもしれない。

祖父母は戦時中の「狭い日本にゃ住み飽きた」という、今で言うところの「食べて応援」のような無責任な官製キャンペーンに疑問を感じながらも満州に渡った。

二人は駆け落ちという大恋愛の末、結ばれ5人の子宝に恵まれた。

なんとか祖父を戦場に送らない策を重ねたが、戦況の悪化はそれを許すはずもなく、あの凄惨な対露戦線に編入されることになった。

程なく戦争は終わり、祖父はあの過酷なシベリアから命からがら逃走し、祖母のもとに帰ってきた。

平和な社会が当たり前の僕らからすると、その凄まじい家族の歴史はおよそ想像だにできない。

小洒落て、すかして、自分の本当の気持も水割りにしてしゃあしゃあとごまかし、まやかしの「戦後民主主義」のもと、ふにゃふにゃに育った僕らには理解できない。

あの二人には「濃厚」で「掛け値なし」の本気の「愛情」があったに違いない。

固く結ばれた二人はいろんな問題にぶち当たりながらも、経験が力となり、幸せな人生を全うした。と僕は信じている。

祖母の部屋を去る際、いつまでもベランダから手を振っている祖母の姿が最後の姿になった。

僕はそうなることも半ば理解していたし、おそらく祖母もそう思ったに違いない。

だけど、どこか子供じみて、小さな女の子のようだった。

黙示宣言

僕は《邪悪》を内在することで、この社会が何をどうしたいのか、おおよそ信じがたい方向について敏感に理解できる。

僕は彼らの《悪意》がよく理解できる。

それはドクター・ハンニバル・レクターが異常者の心を熟知しているのとよく似てる。

ひょっとすると《泣き所》もわかるのかも。

《泣き所》探求は正直な話、自分の傷をえぐるような行為なので、痛いけど、少なくとも《エリートたち》とともに《悪行》の内訳くらいはひけらかせえそうな気がする。

少なくともそれをするために僕はいるのかも。