ミイラ山に陽は落ちて

「ドラえもん」の子供たちの遊び場はセメント管がおかれた空き地だ。
僕らが少年時代だった頃はああいった開発途上の土地は絶好の遊び場であり、特異で奇異な幻視の空間でもあった。
さしずめ現代の子たちはサイバースペースというところか…。

僕は(その当時の子ならだれでもそうであったように)映画やテレビの影響もあってロボットが好きだった。
年代によっていキャラクターは「鉄腕アトム」「鉄人28号」「ジャイアントロボ」「マジンガーZ(これは自立型ロボットではなく、むしろ後に出てくるモビルスーツだが…。)」となっていくと思うが、それは少年が機械と(あたかも生き物であるかのように)精神的に結びついた地層のようなものだろう。

開発途上の土地にはいろいろな廃材があるものだが、とりわけ、何らかの電子機械が激しい工事のために破損し、放置されたプリント基板などは、少年の心に「ロボットが作れるかもしれない」という類の一抹の妄想に火をつけるには十分足りうるものだ。
使える使えないは二の次だ。
なぜなら、少年たちに工学の知識がない。
あるのは自分専用の奴隷ロボットを所有するという熱い「切望」だけだ。

僕が半年という極めて短い期間暮らした福岡市の東には開通間もない新幹線が走っており、宅地開発のために森林が伐採され禿山になった山は造成され、自然の滑らかさを失い、人工的なグリッドに整備されつつあった。
開発は良いことだといってはばからない時代を追い風に…。

僕ら少年たちはミイラの寝姿に似ていることから、この無残な山を「ミイラ山」と呼んでいた。
日没の頃、広場に立つとミイラ山に陽が落ちるのだった。
一日の終焉。手付かずの山の終焉。人間の終焉である《ミイラ》という語彙を用いたのは感覚的に少年たちが終焉を意識していたのかもしれないな、などと最近思う。

当時、僕は最愛の祖父を失った。
大切な人間が《死ぬ》という理不尽さに決着をつけられず、そのはけ口に金属でできた不老不死の他者(友だち)を作りたいと思っていたのかもしれない。
決して死なない、裏切らない、いつもそばに居て、頼もしいロボットを。