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Car

ひき逃げは飲酒運転だったり、移動中の自分に後ろめたい物を感じて行う

後ろめたい人をドライバーにしなくて良い方法は?

一案、タクシー料金を格段に安くする

しかし、タクシー狙いの犯罪を増やす

後ろめたい人が増える

《段落》

大和ネット・バイアスの一翼を担い

マスメディア、陰謀論、オーバーグラウンド、アンダーグラウンド、 奴の前でボーダーは何の意味も持たない。 大和ネット・バイアスの一翼を担い、日本のネット世論を引っ掻き回し世界を揺さぶる天性のランダム意図無しキュレーション、トリックスターxtraでございます。

《灰色の男》の人権

ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる《灰色の男》たちは実在だった。

人々の「生活」、とりわけ「労働」や、人と人を結びつける「信頼」や「取引」に介在して、はじめて生きてゆける寄生虫のような「金融資本」、「金貸し」がそれだ。

ただ、せこい「中抜き」で甘んじていれば問題はないのだが、「奴ら」はもっと多くの「収益」を望む。

社会を「競争」と「消費」に明け暮れるように働きかけ、人々の本来あるべき社会からはかけ離れた「不幸」の世の中にして、なおも「収益」を望むものだ。

“余計なことを考えないように長時間《稼ぐ》ことに専念せよ。

「稼いだ」金で《消費》せよ。

「稼げなく」なったら、隣人から奪うために武器を《購入》しろ。

それでも「稼げなく」なくなったら「毒」を《購入》して、死ね!”

正直、迷惑な人達なので死んで欲しいと思うけど、そんなことを言おうものなら《灰色の男》たちの「人権」を主張し、代弁する《ヒューマニスト》とやらがしゃしゃり出る。

彼らの言い分はそんな連中でも「生きる権利」がある、というもっともらしい《理屈》に立脚している。

僕の答えはシンプルだ。

わずか数名の貪欲な気狂いの権利を守るか?

地球上の大多数の良心的にして慎ましやかな人々のどっちの命を優先するか?

という話なのだ。

《ヒューマニスト》が守りたいのは《地球上の大多数の普通の人々》でなく、一部の裕福な《グローバル・エリート》と「正しいジャッジ」を下した《自分》だけである。

これが《司法》の本質だ。

見上げた《自己性愛》。もはや「まとも」ではない。

昨今の裁判所の判例が不可解なのはそのせいだ。

「まとも」な人間には理解できない。

そもそも「人権」はフランス革命の時に《灰色の男》たちが捏造した《幻想》だ。

大多数の人間に適応させるべく作られたものではない。

ひょっとすると、いざというときのために作っておいた「逃げ道」なのかもしれない。

《灰色の男》は狂ってる。

治癒する《病気》ではなく、パーソナリティとしての《障害》だ。

治らない。治せない。改善しない。

うまく折り合いを付けて「付き合って《やる》」しか方法はない。

今のようなつきあい方は先がない。

「気狂い」にはそれがわからない。

ノスタルジア

以前、テレビで山田洋次監督が映画「息子」のラストシーンについて語っていたのを思い出す。

山田洋次がラストをどのようにしたものか決めかねていたが、他スタッフの助言から最終的に決まったと言う。

聴覚障害を持つ義理の娘とのコミュニケーションのため買ったファクシミリを抱えて、雪深い自宅に父(三国連太郎)が帰る。

やがて、家に明かりがともる。

このシーンで、お父さんは死んじゃうんじゃないかと思った人もいるみたい。

山田洋次の「息子」: エムズの片割れ

老人にとってはファクシミリ、ましてやそれを用いるコミュニケーションなど、遠い未来の話。

時代に押しつぶされそうだけど、そこには暖かい人間とのかかわりがある。

だから(死んでしまうのではなく)明かりはともされる。

人は過去を懐かしむ生き物だ。

かつて生きていた故郷を懐かしむ生き物だ。

「ブレードランナー」の過酷な宇宙環境での労働に従事するレプリカント達の心のよりどころは捏造された「過去」「記憶」だったはず。

人は「思い出」なしでは辛い現実を生きてはゆけぬ。

だから時々、立ち止まっては「思い出」に浸る。

最近「発展」「進化」というものは「資本主義」という人間の収奪システムの要求を満たすための《神話》ではないかと思うようになった。

ファクシミリに新しい《心のよりどころ》を見つけた老人同様に、俺たちもインターネットというまったく未来型のコミュニケーション手段に《心のよりどころ》という奴を見いだしてしまった。

一部、陰謀論者達に見られがちな、アーミッシュのような、あるいはかつての「芸術復興運動」的な牧歌的な生活に戻ろうというベクトルがあるのも知っている。

正直、これほどモダンな生活様式を手にした以上、元には戻れまいというのが俺個人の意見だが、どちらが「正しい」のかは当然わからない。

ただはっきりと言えるのは、人は人と関わり合い、別れた全てのものを思い出し、また明日に向かって歩かなければ生きてはゆけぬ、ということだけ。