ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる《灰色の男》たちは実在だった。
人々の「生活」、とりわけ「労働」や、人と人を結びつける「信頼」や「取引」に介在して、はじめて生きてゆける寄生虫のような「金融資本」、「金貸し」がそれだ。
ただ、せこい「中抜き」で甘んじていれば問題はないのだが、「奴ら」はもっと多くの「収益」を望む。
社会を「競争」と「消費」に明け暮れるように働きかけ、人々の本来あるべき社会からはかけ離れた「不幸」の世の中にして、なおも「収益」を望むものだ。
“余計なことを考えないように長時間《稼ぐ》ことに専念せよ。
「稼いだ」金で《消費》せよ。
「稼げなく」なったら、隣人から奪うために武器を《購入》しろ。
それでも「稼げなく」なくなったら「毒」を《購入》して、死ね!”
正直、迷惑な人達なので死んで欲しいと思うけど、そんなことを言おうものなら《灰色の男》たちの「人権」を主張し、代弁する《ヒューマニスト》とやらがしゃしゃり出る。
彼らの言い分はそんな連中でも「生きる権利」がある、というもっともらしい《理屈》に立脚している。
僕の答えはシンプルだ。
わずか数名の貪欲な気狂いの権利を守るか?
地球上の大多数の良心的にして慎ましやかな人々のどっちの命を優先するか?
という話なのだ。
《ヒューマニスト》が守りたいのは《地球上の大多数の普通の人々》でなく、一部の裕福な《グローバル・エリート》と「正しいジャッジ」を下した《自分》だけである。
これが《司法》の本質だ。
見上げた《自己性愛》。もはや「まとも」ではない。
昨今の裁判所の判例が不可解なのはそのせいだ。
「まとも」な人間には理解できない。
そもそも「人権」はフランス革命の時に《灰色の男》たちが捏造した《幻想》だ。
大多数の人間に適応させるべく作られたものではない。
ひょっとすると、いざというときのために作っておいた「逃げ道」なのかもしれない。
《灰色の男》は狂ってる。
治癒する《病気》ではなく、パーソナリティとしての《障害》だ。
治らない。治せない。改善しない。
うまく折り合いを付けて「付き合って《やる》」しか方法はない。
今のようなつきあい方は先がない。
「気狂い」にはそれがわからない。