ノスタルジア

以前、テレビで山田洋次監督が映画「息子」のラストシーンについて語っていたのを思い出す。

山田洋次がラストをどのようにしたものか決めかねていたが、他スタッフの助言から最終的に決まったと言う。

聴覚障害を持つ義理の娘とのコミュニケーションのため買ったファクシミリを抱えて、雪深い自宅に父(三国連太郎)が帰る。

やがて、家に明かりがともる。

このシーンで、お父さんは死んじゃうんじゃないかと思った人もいるみたい。

山田洋次の「息子」: エムズの片割れ

老人にとってはファクシミリ、ましてやそれを用いるコミュニケーションなど、遠い未来の話。

時代に押しつぶされそうだけど、そこには暖かい人間とのかかわりがある。

だから(死んでしまうのではなく)明かりはともされる。

人は過去を懐かしむ生き物だ。

かつて生きていた故郷を懐かしむ生き物だ。

「ブレードランナー」の過酷な宇宙環境での労働に従事するレプリカント達の心のよりどころは捏造された「過去」「記憶」だったはず。

人は「思い出」なしでは辛い現実を生きてはゆけぬ。

だから時々、立ち止まっては「思い出」に浸る。

最近「発展」「進化」というものは「資本主義」という人間の収奪システムの要求を満たすための《神話》ではないかと思うようになった。

ファクシミリに新しい《心のよりどころ》を見つけた老人同様に、俺たちもインターネットというまったく未来型のコミュニケーション手段に《心のよりどころ》という奴を見いだしてしまった。

一部、陰謀論者達に見られがちな、アーミッシュのような、あるいはかつての「芸術復興運動」的な牧歌的な生活に戻ろうというベクトルがあるのも知っている。

正直、これほどモダンな生活様式を手にした以上、元には戻れまいというのが俺個人の意見だが、どちらが「正しい」のかは当然わからない。

ただはっきりと言えるのは、人は人と関わり合い、別れた全てのものを思い出し、また明日に向かって歩かなければ生きてはゆけぬ、ということだけ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください