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万能のドル

万能のドルというのは、我が国においてはあまねく信仰の対象となっているが、この独特な村々においては(万能のドルの)生粋の信者などというのはいないようだ。(万能のドルの教義の)宣教師がこの村々に入り込んだりしなければ、また銀行や他の敬虔な神殿を立てたりしなければこの村の住民がこのまま貧しくとも満ち足りた状態でいつまでいられるかについて、知るすべはない。

ワシントン・アーヴィング 雑誌『ニッカーボッカー』(1836年11月発行)より

>万能のドル – Wikipedia

「ペスト」カミュ

はじまりは、リウー(医師)が階段でつまづいた一匹の死んだ鼠だった。やがて、死者が出はじめ、リウーは死因がペストであることに気付く。新聞やラジオがそれを報じ、町はパニックになる。最初は楽観的だった市当局も、死者の数は増える一方で、その対応に追われるようになる。

やがて町は外部と完全に遮断される。脱出不可能の状況で、市民の精神状態も困憊してゆく。

ランベール(新聞記者)が妻の待つパリに脱出したいと言うので、コタール(絶望に駆られた男、犯罪者)が密輸業者を紹介する。コタールは逃亡者で町を出る気はなかった。パヌルー神父(博学かつ戦闘的なイエズス会の神父)は、ペストの発生は人々の罪のせいで悔い改めよと説教する。一方、リウー、タルー(よそ者)、グラン(作家志望の下級役人)は必死に患者の治療を続ける。タルーは志願の保険隊を組織する。

ランベールは脱出計画をリウー、タルーに打ち明けるが、彼らは町を離れる気はない。やらねばならない仕事が残っているからだ。ランベールは、リウーの妻も町の外にいて、しかも病気療養中だということを聞かされる。ランベールは考えを改め、リウーたちに手伝いを申し出る。

少年が苦しみながら死んだ。それも罪のせいだと言うパヌルーに、リウーは抗議する。確かに罪なき者はこの世にはいないのかも知れない。パヌルーもまたペストで死んでしまうのだから。

災厄は突然潮が退いたように終息する。人々は元の生活に戻ってゆく。ランベールは妻と再会でき、コタールは警察に逮捕される。流行は過ぎたはずなのに、タルーは病気で死んでしまう。そして、リウーは療養中の妻が死んだことを知らされる。

ペスト (小説) – Wikipedia

何か、《予言》めいた《象徴》的なものを感じるのは私だけだろうか…。

抱きまいらせるのだ!

「ビビらせまいらせる」のは奴らの常套手段。喧嘩を煽って、聴衆からサイフの金を盗み出すのも奴らの常套手段。騙した奴が悪いと言った、困った「被害者」意識は捨てようね。決まって痛い目にあうのはあなたより弱い立場の子ども達。責任を果たす大人とは「被害者」になることではないよね。

レイ・ブラッドベリ

他のブラッドベリ・ファン同様、私も夏の少年期を彼の魔術儀礼で通過した。

《私》という成分表のほとんど…とは、いかないまでも、かなりの重要成分であることには間違いない。

漆黒の宇宙、荒れ狂う空のような白亜の龍神、神の機知と小市民の愚か。

彼の紡ぎ出す詩的で美しい世界は、今も振り返ると切ない思い出のタイム・カプセルのよう。

もともとはグラム・ロックスター、マーク・ボランの愛読書、かつまたバンド名の「Tyrannosaurus Rex」の元ということもあって、興味を持ったのが始まり。

私のノイズ・ユニットもいまだブラッドベリの短編のタイトルを拝借して「Rocket Summer」である。

彼の《夏》というテーマは実に巧みに少年のそれにマッチしている。おそらく彼は、心が「少年」のままだったに違いない。

《夏》は闇と光と真実と幻想を通過するゲートであって、再生と誕生を現す。少なくとも「少年」にとっての《夏》はそうだ。

私のおすすめは「霧笛」「万華鏡」だ。

「霧笛」は映画化されており、彼の代表作と言っても良いと思う。

霧が出ると鳴らされるサイレンの音をメスの恐竜の声と勘違いするオスの話。

舞台となる岸壁の灯台というロケーション、自然の静けさ、激しさが、この寂しげな取り残され、忘れ去られたであろうモンスターの悲哀を詩的に描いた秀作。

「万華鏡」は今思えばかなり宗教的な内容だったのかも知れない。

宇宙船の事故で大気圏に放り出されたクルーのいがみ合い、やがて、子ども達の目に流れ星となって焼き付くことを願う《愛》。

今年(2012年)彼が亡くなって、今日は彼の誕生日。今年の《夏》は海でいえば「なぎ」。とても少年の《夏》ではなかった。彼が死んでから、今日まで、実に「抜け殻」な《夏》を過ごしてしまった。

私なりに「喪に服した」のかも知れない。

大切な「少年期」の何かが壊れた気がすると同時に、何かとてつもなく「少年期」に戻らなければならない気になっている。

まったく新しい《夏》を通過する準備なのかも知れない。

レイ・ブラッドベリ – Wikipedia

キュレーティブ宣言

自分の《言葉》で語るより、世の中に散乱する《言葉》《絵》《写真》《映像》を拝借して提示した方が真を得る。

「発言する」ことが目的でなく「伝える」ことが目的の場合有効。

インフォメーション・キュレーションは果敢にジャンルの枠と社会的偏見を「無」にすることにより、人々に「奇」を提供することで「注目」を集め、情け容赦ない情報社会での縦横無尽な「思考」のメソッドを試みる。

またその様を提示することで、メソッドを広く一般化する。

扱うソースはいかなるもであろうと用い、差別しない。

それは受け手も同様で、いかなるソースであろうと一度は受入れ、そこに配された理由を理解する。

答えは一つでないがゆえに、市民を単一化、奴隷化したい向きの、思考の固まったエリート連中に、我々のコミュニケーションは理解できない。

エリート連中は我々を管理できない。

エリート連中は我々を束縛できない。

エリート連中は我々を支配できない。

一種の暗号(コード)化に包まれた曖昧なプロトコルを用いることで、エリート連中と一般市民は乖離する。

煮上がった鍋の灰汁のようにエリートだけが浮き上がる。

我々にはエリートにない一つのデコーダを持っているからである。

この世に《生きている》と言うごく普通の《意味》。

エリートはただ「駆逐」し、「破壊」し、「勝利」することのみを行動原理としている以上、我々のコードを解読できない。

信じるな!考えろ!

2011年3月11日以降、学んだこと。

意外に《信用》していたものは《信用》できないということ。

これは個人的に、かなり大きなパラダイム・シフト、思考法の再定義を性急に迫られる事態だった。

当時、私はいわゆる《B層》に属していたので、その衝撃はやや、気がふれるほどだった。

福島第一原子力発電所の建屋が爆発した時、巷には既存のメディアが報じない《情報》が「ネット」という新しいメディアに溢れた。

それはあたかも《パンドラの箱》を開けてしまったかのようだった。

中からは「不確かなもの」や「妄想」の類いなどバイアスを帯びた状態で溢れかえっていた。

現実に原子炉建屋からは多様な核種が溢れていた。

時間が経つにつれて、それら《ディスインフォメーション》にも一定の《真実》が含まれていることがわかってきた。

1年後、政府や既存メディアは《デマゴギー》としていたものを《真実》と認めた。

長い間、気づかなかったことはこうだ。

メディア、教育機関、研究機関がリークしている情報は必ずしも正しいわけでなく、その内容、タイミングは計算され、大衆を誘導するために《加工》されていたのだ。

いまだ《B層》の冊の中の人々にとっての《真実》とされている既存メディアや、政府発表、大学の教授の提言からシンクタンクの情報も、《陰謀論》と片付けられる情報同様に多分に《ディスインフォメーション》を含有している以上、《真実》ではあり得ない。

いやむしろ、企てのバイアスがかかっている以上、《悪意》の情報だ。

情報というものは本来的にそのような《もの》、安全に鵜呑みにできない《もの》だったのだ。

一度開いた《パンドラ》は取り返しがつかない。

《偽情報》に怯えてうずくまるか、《情報》との関わり方を悔い改めるか、二者択一でしかないのだ。

陰謀論

もう誰もメディアを信じていない。

もう誰も企業を信じてはいない。

もう誰も国家を信じてはいない。

もう誰も既存の価値観で定義された「権威」というものを信用していない。

俺が「陰謀論」を興味深く思うのは、その秘密にして広範に流布する奇異な真実やその暴露にはない。

「陰謀論」の最大の魅力は、それまで「大衆」と定義された単一的な集合体の中に、陳腐なメソッドにのせられないタイプの個人のバラバラの「祈り」「希望」「憎悪」と言ったものがディスインフォメーションのバイアスの粒子の中に、比較的大きな原石、裸石(ルース)の状態で埋没していることにある。

言い換えるならば、人々の「想い」が多様な形に姿を変えてネットという無法なメディア空間を漂っている。

その「想い」というのは、おおむねアナーキーで、家畜に甘んじてきた存在からは想像もできないほど大胆な殴り込みの姿勢に富んでおり、俺はその中に「希望」を見いだすのだ。

また、「陰謀論」が流布する環境はそれまでの「情報」のあり方に対して、ラジカルなまでに多様な「定義」を止めどなく「再提案」し続けていることにある。

思考停止な石頭には、生きてゆけるような環境でないことだけは確かだが、そこには軽薄なまでに豊富なメソッドが溢れており、可能性に関して言うならば底をつく心配はない。

言うまでもなく1%の支配層は早くもその空間にアドバンテージを取って活動している。

ひょっとすると、この世界も彼らの造物に過ぎないのかも知れない。

あるいは自分という意識体自体をも…。

断つ

あまり得手ではないがゆえ

想いと言う名の指摘めましょう

毎日1本、名残惜しき想い

血の涙、流して、なんとか

10日で全て片付けば

良いのしょうがが

どうにもこういも

そうは問屋が下ろさぬようで

指を無くした手のひらで

責めてみたとて情けなく

ただただ虚しく風が

切れて平らな切り口を

意気揚々自由奔放に吹いていく。

断たれた想いを断つために

ちょうど良い具合に美しく

指など断たなくとも

風の向くまま気の向くまま

行く道こちらと指し示す