2011年3月11日以降、学んだこと。
意外に《信用》していたものは《信用》できないということ。
これは個人的に、かなり大きなパラダイム・シフト、思考法の再定義を性急に迫られる事態だった。
当時、私はいわゆる《B層》に属していたので、その衝撃はやや、気がふれるほどだった。
福島第一原子力発電所の建屋が爆発した時、巷には既存のメディアが報じない《情報》が「ネット」という新しいメディアに溢れた。
それはあたかも《パンドラの箱》を開けてしまったかのようだった。
中からは「不確かなもの」や「妄想」の類いなどバイアスを帯びた状態で溢れかえっていた。
現実に原子炉建屋からは多様な核種が溢れていた。
時間が経つにつれて、それら《ディスインフォメーション》にも一定の《真実》が含まれていることがわかってきた。
1年後、政府や既存メディアは《デマゴギー》としていたものを《真実》と認めた。
長い間、気づかなかったことはこうだ。
メディア、教育機関、研究機関がリークしている情報は必ずしも正しいわけでなく、その内容、タイミングは計算され、大衆を誘導するために《加工》されていたのだ。
いまだ《B層》の冊の中の人々にとっての《真実》とされている既存メディアや、政府発表、大学の教授の提言からシンクタンクの情報も、《陰謀論》と片付けられる情報同様に多分に《ディスインフォメーション》を含有している以上、《真実》ではあり得ない。
いやむしろ、企てのバイアスがかかっている以上、《悪意》の情報だ。
情報というものは本来的にそのような《もの》、安全に鵜呑みにできない《もの》だったのだ。
一度開いた《パンドラ》は取り返しがつかない。
《偽情報》に怯えてうずくまるか、《情報》との関わり方を悔い改めるか、二者択一でしかないのだ。