人はただダラダラと生きている

先日、僕はすごく気持ちのいいtwitterのDMを頂いた。

その前日に、DMの送り主であるティーンネイジャー女子から、いささか不遜な悪態を受けていたのだ。

実際、僕は、そんなことは、これっぽっちも不愉快とは思っていなかった。

むしろ悪態までつかれる間柄になっていることに、若干の歓びすら感じていたのだ。

《謝罪》だった。

言うまでもなく人類史上稀に見る原発事故を起こした東京電力の、その当事者であり、最高責任者である勝俣氏の会見を僕はネットでリアルタイムで見ていた。

形式的な《謝罪》はあったものの、結局、話の内容は申し開きどころか、事故の責任は自然災害である地震であるという開き直った内容であり、これを聞いて日々恐怖に苛まれている福島県民はどのように思うだろうと僕は思った。

ティーンの彼女にできることを、このいい齢を召した、こともあろうに通常の人間とは格段に違う地位にある、この男には出来ないのだ。

僕の周囲にもいい齢をして、申し開きも《謝罪》もできない大人はゴマンといる。

ひょっとしたら僕もその一人かもしれない。

常々、若者と接して思うことは、彼らの方が考え方も、人間性も、僕らよりよっぽどしっかりしているということなのだ。

歳を重ねるごとに、人間はダメになっている印象だ。

その最たるものが前出の勝俣氏である。

儒教的には「齢の功」というものがあるが、これは、明らかに「間違い」であることを、今回の311以降思い知ることになった。

僕ら多少なりともバブルの恩恵に浴した人間は《クズ》、戦後民主主義という一見肯定的だけど、何かおかしい時代の空気に押し流されただけのご年配のベビーブーマーは、僕らに輪をかけて《クズ》である。

実際、先日の世田谷の立てこもり事件でもわかるように、ああいったくだらない凶悪事件のほとんどが60歳以上の、昔なら《ご隠居》と呼ばれた世代によって運営されている次第である。

少し前に僕は20年前の自分のものの考え方の方が正しかったとい事に気がついた。

本来な歳を重ねれるごとに「経験」が積み重なり、円熟の時を迎える、というのがステレオタイプ的な人間の人生だったが、これはあくまで誤った《幻想》の類だったに違いない。

ひょっとするただ、ダラダラ時間をやり過ごすことで人間は「正しく」形成されるという考え方を植え付けることは、現状の問題から目を逸らさせる、言わば「麻薬」効果だったかもしれない。

昨日よりは今日のほうが「進歩」「進化」「発展」しているという成長神話をパーソナライズした洗脳だ。

オートマティックなエスカレーター式年功序列フォーエバー。

気狂い老人の後始末を非力で片付ける子どもたち。放射性廃棄物が降り注ぐ、小さな小さな島国。

そんな六道のようなビジョンが僕の脳裏に焼き付いて、もう離れない。