自分の《言葉》で語るより、世の中に散乱する《言葉》《絵》《写真》《映像》を拝借して提示した方が真を得る。
「発言する」ことが目的でなく「伝える」ことが目的の場合有効。
インフォメーション・キュレーションは果敢にジャンルの枠と社会的偏見を「無」にすることにより、人々に「奇」を提供することで「注目」を集め、情け容赦ない情報社会での縦横無尽な「思考」のメソッドを試みる。
またその様を提示することで、メソッドを広く一般化する。
扱うソースはいかなるもであろうと用い、差別しない。
それは受け手も同様で、いかなるソースであろうと一度は受入れ、そこに配された理由を理解する。
答えは一つでないがゆえに、市民を単一化、奴隷化したい向きの、思考の固まったエリート連中に、我々のコミュニケーションは理解できない。
エリート連中は我々を管理できない。
エリート連中は我々を束縛できない。
エリート連中は我々を支配できない。
一種の暗号(コード)化に包まれた曖昧なプロトコルを用いることで、エリート連中と一般市民は乖離する。
煮上がった鍋の灰汁のようにエリートだけが浮き上がる。
我々にはエリートにない一つのデコーダを持っているからである。
この世に《生きている》と言うごく普通の《意味》。
エリートはただ「駆逐」し、「破壊」し、「勝利」することのみを行動原理としている以上、我々のコードを解読できない。